脱資本主義へのラディカルな回答:マネーレスライフ

キャッシュレスではありません。マネーレスです。

資本主義、大量消費、貨幣システムへの猜疑心にかられた一部の活動家は、実際にお金を一切使わないで生活をするとどうなるか、試してみました。

今回はマネーレスライフの代表的な本2冊を取り上げてみたいと思います。陰キャ陽キャそれぞれのマネーレスとの向き合い方です。2冊とも10年以上前の本になりますが、二人とも紆余曲折はありながらも現在まで継続しているようです。

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マネーレス界隈の人たち

陰キャの内省的マネーレス:ダニエル・スエロさん

ダニエル・スエロさんというアメリカ人男性がいかにしてお金を手放し洞窟で寝起きするに至ったかの軌跡が主に本人の日記や周囲の人へ送られた手紙をもとに書かれています。著者は友人のジャーナリストです。

この邦題はとても考えられていて、原題(The Man Who Quit Money)よりも本の中身をよく言いあらわしていると私は思います。洞窟で暮らすことにした、とすることで彼はこういう人間だと決めつけるのではなく、どういう思想遍歴と行動の結果、洞窟暮らしに行きついたのかということをうまく表しているでしょう。

今では珍しくなった厳格な福音派キリスト教を信仰する家庭で育ったこともあって、頭の中にはいつも聖書の一説が引っ掛かっているという真面目でやや神経質な青年に育ちます。大学での刺激的な出会い、ピースコーとしてのエクアドルでの活動、自殺未遂とゲイであることの自認、モアブでのユルイその日暮らし、タイやインドでの宗教体験などを経て、自身の宗教観の見つめなおしと社会の様々な矛盾にも接し、次第に貨幣システムと距離を置くに至ります。

聖書からの引用や、アメリカのキリスト教の歴史なども多く引き合いに出されているし、時系列と主観がしばしば切り替わるので、やや難解で読み物として面白いものではないかもしれません。

スエロさんはごみを漁ったりハーブを獲ったり木の実を拾ったり、知人にごちそうになったりと毎日違う食料の供給方法をとっています。タイトルからは社会を捨てて洞窟で暮らしているという印象を与えますが、それは一時期のことであり、本人は時に放浪しながら無銭生活を続けています。知り合いが長期旅行に出かける際の留守番もしばしばしているようです。

彼は徹底して、お金を使うことはもちろん、もらうことも避けています。時々アルバイトなどで働きますが、お金は受け取らないようにして、もらえるのであれば食料をもらうというスタイルです。この本に関する収入もすべて拒否して、その代わり、できた本を無料で配布するようお願いしています。それがこの本を書いた友人との約束でもありました。

さて、お金というものが私たちを豊かにしてきたのだろうか、ほとんどの人が一度は考えるであろうこの疑問。でも私たちは目の前の今日の生活のこと、そして雑多な小さな欲に屈してすぐにお金が普通に存在する生活に戻っていくことでしょう。

お金は確かに便利なものです。透かしのある紙切れ、もしくは実体のない数列が実際に価値のあるもの(食料、家、車など)に変化するのだから、それは確かに交換券としてはとても便利なものです。

でもそのお金に、時間の概念が加わると交換以外の使い道が生まれます。お金を貯め、投資をし増やすこと、そして挙句には失わないことが主目的となりお金に隷属することになります。もともと、それは生存への不安がそうさせているはずですが、お金の多寡と幸不幸がイコールになってしまいました。

だから多くの宗教者や哲学者は金を持つな、喜んで捨て去れば自由になれる、もっと楽しく生きられると説いてきました。面白いのは、キリスト教もイスラム教も、仏教も、中国やインドの古の哲学者も、ことごとく同じことを言っている点です。だからこれはおそらく真理なのでしょう。

それを実践した人もたくさんいて、有名どころではガンディー、アメリカのピースピルグリムなど、日本でも芭蕉や円空など物を所有せずに放浪の人生を過ごした人もいます。都会暮らしと並行して実験的に社会から距離を置いた人としてD・ソローや今の人だと高村友也さんなんかが有名どころです。

ピースピルグリムはかなり極端な例で、彼女は人生の後半を何も所有せずにひたすら歩いて過ごしました。お金はもちろん、最低限の身の回りの物以外は一切所有していなかったという話です。最後は交通事故で亡くなります。

じゃあ実際にそんなことができるのか、と問われればほぼ100パーセントの人が無理だと思うでしょう。お金とテクノロジー無しでは今日明日生きていけるか、そんなことすら危ういと感じてしまい、実際に挑戦する人はほぼ皆無なので、実践した人はどうしても好奇の目で見られます。

しかし、すべてを捨てて放浪の身となる選択をせずとも、金銭と現代社会のしがらみを捨てて生きていくことは実は可能です。アメリカにはコミューンと呼ばれる自給自足を行う集団がたくさんあります。そして、アーミッシュやシェーカー、メノナイトといった宗教に基づく中世的な自給自足の暮らしをしてきた人たちもいます。一部は今でも続けています。

スエロさんも一時期コミューンのひとつに属しますが、いうなればコミューンとはまさに「中世の暮らし」であり、お金に関する煩わしさからは解放されますが、その代わりに濃密な人間関係が要求され、共同体の中での役割も与えられ、それはむしろ貨幣経済の中に身を置くよりも窮屈なことだと気が付きます。

お金は確かに煩わしいのですが、近代まで続いた共同体や家族親戚とのつながりを無視しても生きられるようにしてくれた”ツール”としての側面もあり、さらに近年ではインターネットも加わって、お金さえあれば誰ともかかわらずに気軽に生きていくことができるようになったのです。

さて話をスエロさんに戻しますが、彼はそんな感じでお金を使わずに洞窟や知り合いの家を転々とし、ごみを漁ったりハーブや木の実を食べたりして生きていますが、それをブログで発信し動画も投稿しています。それらから収益は得ていないはずですが、完全にテクノロジーから離れているわけではなく、ただ「お金」の使用をやめたのでした。

スエロさんの生き方に批判的なコメントや矛盾点を指摘する読者も一定数いますが、私は彼の素直さに好感を持ちました。遠回りも矛盾も含めてその人を形作っていると思うし、人間は変化を続けていくものです。

そういう意味で私は、自身に対して誠実なスエロさんの生き方に一種のあこがれを抱いているのかもしれません。そして彼は今後も変わり続けていくのでしょう。

陽キャのパリピ的マネーレス:マーク・ボイルさん

マーク・ボイルさんというアイルランド人も実験的にお金を使わない生活を行った一人です。彼もマネーレスを実践する前からヴィーガンになったりものを減らしたり、無銭旅行をしたりといろいろ考えを実行してきた結果、この無銭生活という壮大な実験を思いつきます。

タイトルと表紙の写真はいささかミスリードなんです、これが。この本を手に取ったとき、おそらく9割の人が森の中でハーブや木の実を摘んで、ロケットストーブで茶を沸かして慎ましく暮らしている青年という想像をするでしょうが、実際は大きく違います。

彼が行った実験は「”俺は”1年間お金を使わない」というものです(結局現在も継続中)。だから、自分が使わなければいいのです。周囲がお金を使って得たものにただ乗りする「フリーライダー」と言われても仕方がないのかもしれません。

2008年の国際無買デー(11月29日)からの一年間をお金無しで生活すると決意し準備を進めますが、準備期間はお金を使って住居と無銭生活が実行可能な環境を用意していきます。開始にあたり盛大にパーティーを催し、多数の有名メディアの取材を受け、その後もウェブサイトを運営し、各マスコミへ記事を提供しています。

実際にどれくらいの期間、最初に用意したトレーラーハウスで生活したのかは書かれていませんが、しょっちゅう人に呼ばれてあちこちのイベントに出かけています。移動は極力ヒッチハイクと徒歩にしていたようですが、滞在中はホストのもてなしを受けていたようです。

とにかく、じっとしていられない人で、友達に会い、イベントを主催し、一言で言うと陽キャのパリピといった感じで、とにかくお金を使わずにいかに楽しく生きていけるかを追求した内容となっています。

だから、タイトルから期待する内容との差がとても大きく、批判はそれが起因しているのでしょう。私もちょっと苦手な部類の人で、途中何度か読むのをやめようと思ったくらいです。とにかくひたすら思考がパリピ、かつイベントの企画実行が大好きな人なので、この実験も一種のエンターテインメントだったととらえることができます。

しかし彼は、お金への執着に関してはゼロだと思います。それはどうやら間違いなさそうです。

ひたすら人に会いその交流を楽しむスタイルなので、そういう本だと思って読むと学びは多い内容だと感じました。ですが、自給自足、ミニマル、持続可能という観点で本書を手に取るとイライラするかもしれません。

彼はお金をほとんど使わないことと完全に使わないことの大きな違いについても触れています。ほかのモノゴトでもそうかもしれませんが、お金の使用においてゼロと1の違いはとてつもなく大きいものです。

彼はメディアへの寄稿を頻繁にしていますが、それらはもちろんEメールで送信されます。小さな太陽光パネルから得られる電力には限りがあるので、下書きは紙とペンでしようと思い立ちますが、紙とペンを自給しようとなると、それは大変な時間と労力を必要とします。

キノコの一種からインクと紙を作ることができるのですが、非常に手間がかかるので、結局はゴミ箱を漁るという楽なほうへ流れていきます。私たちも経験があると思いますが、ペンや紙は無駄にされる割合が他のものよりも高く、ごみ箱や街に捨てられたごみの中から探し出すのは簡単そうですが、ピンポイントで特定のモノを探し出すのは思ったよりも大変だったそうです。

ちなみに、少しでもお金を使えるのであれば、そういった作業は不要になります。100円出せば数本のペンを買うことができます。だから節約することと、一切お金を使わないということの間には大きな隔たりがあるのです。普段からあまりお金を使わない質素な生活をしている人でも、その使用をゼロにすると劇的な変化を体験することになるでしょう。

この本で明らかになったことの一つ、それは人とのつながりを愛する人は、むしろお金を手放したほうがいいということです。わかりやすい例ですが、もし町から町へ移動する場合、チケットを買って電車に乗れば目的地に簡単快適に到着することができます。でもヒッチハイクだと必然的に複数の人に出会うことになり、そこでつながりが生まれ新しい価値観に触れることもできるのです。

お金を持てば持つほど煩わしい人間関係から解放されるけど、今度は貯めたお金を使って人とのつながりを得ようとする、そんな矛盾した存在が現代人なんでしょう。なんとも皮肉なものですね。

おまけ:私とマネーとの関係

私は極力お金を使わない生活を心がけています。ですがその理由はご紹介した2冊の彼らとは大きく違い、「多くを稼げないから少ししか使えない」というカッコわるいものです。

上記の二人はとても優秀でその気になればこの社会でたくさんのお金を稼ぐことができると思いますが、私は金銭獲得能力が低くお金と縁がないのです。

人間関係が苦手、体が弱いなど複数の要因がありますが、社会に出て収入を得ることを極力少なくして、ストレスを減らして穏やかに生きていきたいという考えに至りました。おそらくこれは、私が死ぬまで変わらないでしょう。

電車にも乗れなくなったし、交通量の多い場所での運転もしたくない。意味のない気遣いや雑談もしたくない。誰もほしくないお土産を職場に持って行ったり、会社の都合に合わせて生きたくもない。体調が悪いときには休みたいし、毎日同じ時間に出勤することも不可能です。だって私はロボットじゃないんだから毎日コンディションが違うのだ。

そんなことを言っているとお金は稼げなくなり、必然的にお金とは縁がなくなっていきました。

お金を動かさない生き方にシフトすると考え方が大きく変わりました。まず将来買い替えが必要な家電をほとんど持たなくなりました。そしてメンテナンスや更新が必要なモノやサービスもすべて解約しました。

車を手放してから5年。冷蔵庫、洗濯機、テレビ、炊飯器、電子レンジ、掃除機などの家電も持っていません。一台の扇風機とパンを焼くためのオーブンは最後に残りました。

外で働かなくなると一人の自由な時間がたくさんできるので、洗濯もゆっくり手洗いで済ませるし、冷蔵庫が無くても二日に一回近所のスーパーへ買い物に行き、すべて自炊で賄っています。慣れればなんてことはありません。

そして、当たり前ですがものを大切にするようになりました。服も靴も普段から丁寧に扱うようになり長持ちさせることができています。手洗いだと服が傷まないし水の使用も少なくて済むし、握力の維持という側面からも効果があります。

食事に関してもその時に安い野菜を食べるようになり、旬のものにも敏感になりました。

極力気を付けて生きてきたつもりですが、お金とのかかわりを少なくしたことでより環境負荷の少ない生活にシフトできたと思っています。車や大型家電は石油(とそれから作られる電気)を多く消費するのはもちろん、製造過程でもエネルギーをたくさん使いますし、使用後は再利用できない粗大ごみとなります。現代人の一時的な快楽のために、地球環境に不可逆的なダメージを与え続けるのはやはりちょっとおかしいことでしょう。

そんな感じで、完全にお金を使わない生活で見える景色とはまた違うでしょうが、私もその効果を実感している一人かもしれません。

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