毎回この導入部分に苦戦をします。このコンテンツメニュー前のスペースはブログにとってとても大切なパートだと言われており、ここでいかに読者を引き付け以下の本編へ導けるかがブログ運営のカギとなるようです。
導入なのでまったく関係のない話題をするわけにはいきません。この後の渓流釣行へ自然につなげる必要があり、かつある程度簡潔にまとめる必要もある。
笑われるかもしれませんが、私はこのブログはネイチャーライティングだと思っていますので、ただ事実を羅列することも避けたいのです。
そんな感じで”ネタがないということをネタにした導入”から本編へ続いていきます。今回は新規開拓も交えた釣行となりました。木々の葉も落ち視界もよくなってきたので未踏の渓流を探るにはよい季節と言えます。
渓流釣りという中庸
何度か同じ話をしているかもしれませんが、なるべくバランス感覚を保った釣行にしたいと毎回願っています。より砕いて言いますと、集中してるんだけど深入りをせず、引き際をわかっているような理性的な釣りです。
中庸という言葉があります。これは極端にならずに物事に対してバランス感覚を失わないようにしましょうという古代からのテクニックですが、多くの人が実感しているように簡単なことではありません。英語で Golden Mean と訳されるだけあってこれができれば何事もうまくコトが運びます。
ですが人間、極端に走るほうが簡単なもので、中庸と似た言葉に「腹八分」がありますが、食べすぎて後悔することは非常に簡単ですがちょうど食欲のスイッチが入る腹八分で抑えるということは余程鍛錬を積んだ精神力の強い人にしかできない芸当で、一般人には難しいです。「馬鹿言っちゃいけねぇ、腹八分からが勝負だろぅ」という人も多いはず。
かくいう私も恐ろしく欲に流されやすい人間なので何事にもちょうどよいラインを保つことはまさに苦行であり、簡単に貪りがちです。それを防ぐ方法は私にとってはただ一つで、それは”そもそも手を付けない”ということです。
飲み食いは下手に手を付けると抑えが効かなくなるから、そもそも最初の一口を食べなければ際限なく生まれ出る欲望を我慢をする必要がないので、朝起きてから夕方まで何も食べないということをたびたびやります。
こんな感じでダメ人間にとっては何事も”エクストリーム”にしたほうが意外と楽に生きられます。食べまくる、貪りつくす方向にエクストリームになると健康を害したりいろんな意味で生きづらくなるので、私はそもそも手を付けないという方向でのエクストリーム実践家なのです。
そのエクストリーム理論で考えると、じゃあそもそも釣りに行かなきゃいいんじゃね?とあなたは思われるでしょう。でも渓流釣りに関しては心配ご無用です。
なぜかというと自然と中庸に収束していくからです。要するに、どれだけ必死になっても釣果は毎回”普通”であり、欲望ベースの行動でどうこうできることではないからです。
どんなに足掻こうが中庸へと行きつく行為。これこそがするべきことなのかもしれません。その結果を意識して、いくら頑張っても中庸だということをわかりながら理性を保って釣りをしたい、という話です。
新規開拓を試みる
ということで前置きが長くなりましたが、以前から気になっていた新規河川に降りてみることに。
いつも入る川と本流を共にしているので確実に魚は居るはずなのですが、なんせほとんど釣り人の痕跡を見かけない辺境の川なので可能性は未知数です。そういう川は穴場というよりはたいてい釣りにならないということのほうが多い印象。
カーブにある堰堤からのぞき込むと小さな魚が泳いでいるのが見えます。どうやら山女魚のようです。この川の本流は完全に山女魚の川(当然ウグイも混じるが)なので期待が膨らみます。
人里から離れていて正直羆もコワいので短い区間だけ様子を探ってみます。細流ですがところどころに深みがあって18cmを筆頭に5匹の小さな山女魚を手にしてちょっと複雑な気分になりました。大きいヤマメはもっと上流へ移動しているのか、どうも今日のこの結果だけでは判断はできないのでもう一度来ないといけません。
でもだ、あんまり雰囲気が好きじゃないんだよな。この雰囲気といった漠然なものが私にとって川選びの最重要項目になります。自然度とか護岸度ではなくあくまでも雰囲気を大切にしたい。
ついでにその近くの支流も探ってみますが、いつも通り濁っていてどうやら雨云々の話ではなく何らかの原因で常態的に濁っている川みたいです。けっして澄むことがない川、まるで誰かさんのようではあります。
その川から支流に入り最初の堰堤まで釣りあがってみます。こちらは濁りもそれほど強くなく、水の中を歩くと足元から小さな魚が散っていく様子も見て取れます。おそらく山女魚の稚魚です。渓相的には岩魚が出てほしいのだが、どうも今シーズンは渓流の岩魚に縁がありません。
人が入った形跡をほとんど感じないまま数百メートルを遡上するとお目当ての堰堤に行き当たりました。これはどう見ても繁殖場所を求めてここまで登ってきた大型の山女魚がウロチョロしているんじゃないかという好ポイントに見えます。
結果は残念ながらウグイに交じり小さな山女魚が釣れただけでした。それでも色味が濃くてきれいな魚でしたし、ここまでの道のりでミソサザイ(以下に画像があります)にも出くわしたので来た甲斐はありました。
すたすたと引き返し、車でセコマのルイボスティーを飲み一息つきました。涼しいので体力の消耗はほとんど感じません。渓流釣りにはもってこいの季節です。
いつもの虹鱒の支流
ロッドを振っているとしばしば感じますが、渓流釣りにはある程度の敏感さが必要だと思います。いろいろな要素の中でも特に流れの解読とアプローチにその能力は発揮されるのでしょう。
かくいう私も俗に言う敏感さんで、きちんと診断を受けたわけではありませんがおそらく今流行り(?)のHSPというやつだと思います。それでもまぁ普通に買い物をしたり釣りに行ったりもできるのでそこまで深刻なものではないのでしょう。
でも、人が高密度でたくさんいる場所が本当に苦手で、極力そういう場所にはいかないようにしています。買い物は人が少ない曜日や時間を選びますし、買うものが決まっている場合はネットで済ませます。
人が高密度でたくさんいて、なおかつ時間とか不安とか不確実な要素が複雑に絡み合う”空港”という場所が特に苦手で、こちらも極力行くのを避けたいのですが、保安検査を過ぎ出国もスムーズに済ませたときの解放感はたまらないものがあり、そこにある外界の下手すりゃ2倍もする飲食物にその解放感もあってついつい手が伸びてしまうのです。
さて話がそれましたが、この敏感という能力、現代を生きる人間にとってプラスになる側面はあるのでしょうか。よく”対策本”などには、その繊細さ、感じやすさを生かした仕事、例えば接客業、職人、アーティストなどが向いているなどとされていますが、、、どんな仕事も多くの側面を持ち繊細さだけでコトが済むわけではありません。大人であれば当然知っていることです。
繊細だと多くを感じられるので人生が豊かになる、ということを説く人もいますが、それもアウトプットの方法と手段を確立していないと、ただただ過剰に感じるのみでプラスの面は無いのでしょう。そのアウトプットに特化した例が”アーティスト”なんでしょう。
一方、鈍感さんにはメリットしかありません。それは言いかえると敏感さんにはデメリットしかない。
鈍感な人は基本的に”他人にも自分にも鈍感”です。好意的な言い方をすれば”おおらか”ということになり、本人も生きるのが楽だろうし周りにいる人も一緒に生きて疲れません。
特に、外界に対して敏感でいる必要が無くなった安心安全な現在の日本では、その鈍感さは誰もが憧れるものであり、敏感さんに向け書かれた「気にしない○○」「考えすぎない○○」「受け流す○○」「心を軽くする○○」等の書籍を読み、必死になって鈍感力を高めようとする敏感さんは非常に、なんていうかかわいそうな存在です。
わたしもそんな哀れな敏感さんの一人で、一時期必死こいて上記のタイトルがついた本を読み漁り、”鈍感力プリテンダー”になっていた時期がありました。ここに私が到達した答えを後進の哀れな敏感さんに向けて書いておきますが、それら「感性の矯正作業」は百害あって一利なしでした。
鈍感を装っても本物の鈍感さんには到底かないません。
本物の鈍感さんは鈍感さで生じる不利益に関しても鈍感なので、本物の鈍感と言えますが、鈍感を演じている敏感さんは生来持っているその敏感さで鈍感だと不利益を被るであろう場面や状況を的確に避けるので本物には到底及ばないのです。
では敏感な人はどうやって生きていけばいいのか。それはその人の敏感具合と境遇、そのほかの個性や才能によって変わってくるので答えはやはり自分で考え見つけるしかないんだと思います。唯一私が言えるのは、その敏感さにフタをすることだけは避けてほしい、ということなのでした。
本当は、鈍感な人こそ敏感な人が見ている世界を学ぶべきだと思うのですが、現代日本は鈍感なほうが有利で需要もあるので仕方がないのでしょう。常に周囲を警戒し足早に歩く女性より、ヘッドホンで爆音アニソンを聞きながらミニスカートで夜道を歩く女の子の方がうまくいくのが現実です。
でもあなたはこう思うかもしれません。敏感さとおおらかさを併せ持つ人格こそ理想とすべきなのでは、と。
しかし私の経験上、とことん鈍感なほうが今の世界では圧倒的に生きやすいし成功(金銭的な意味で)もしやすいです。本物の鈍感さは先ほども書きましたが自分にも他人にも鈍感なので、反省や後悔もしないし細かいことをグジグジと根に持つということもありません。
さて脱線が長くなりましたが(むしろそっちがメインになっているが)当日の釣りの話です。
新規開拓ののち、いつもの川で尺上の虹鱒を狙って橋の近くのポイントに毛ばりを流してみました。勝手知ったる川は短時間で効率よく釣りができるもの。
残念ながら尺には全然届かなかったけど、めぼしいポイントで小さな虹鱒を数匹釣り上げました。はしご酒をするサラリーマンのように”いつもの流れ”ということで、最後は上流域で大物岩魚を狙ってみましょう。
本流上流
そんな感じでたどり着いたいつもの川。名だたるポイント(主に倒木)に順番に毛ばりを落としていきます。そして前回大物をバラしたまさに同じ場所。同じ出方で大物がにょきっと倒木の下の暗闇から姿を現し、私の毛ばりをかっさらっていきました。
おそらく50はあるであろう大型の岩魚は流心の水底に張り付いてしまって一向に動く気配がない。そうしているうちにもラインには流心の激しい流れが当たってテンションの半分はその流れに打ち消されて口元の毛ばりは当然緩む形となり、あっけなくバラシてしまいました。
ロッドが鳴る音というものは何度聞いてもよいものです。それを楽しんでいただけると幸いです。そしてバラした瞬間の「あっ」もお楽しみください。「ざまぁ笑」と思っていただけますと僥倖でございます。
今回も動画を多めに撮影してみたんですが、釣行を動画に寄せるとどうしてもカメラを持つ機会が減るし、それと同時に釣りそのものにも集中を欠く結果になります。
どれを優先させるのか、あらかじめ明確にしておかないとバラバラになり釣行が空中分解してしまう。
今日という一日はまさにそれで、結局何も得ることがない釣行となってしまいました。良い動画も良い写真も良い釣果もなーんもない。
今シーズンはあと数回は釣りに行けるはずですが、その際には現場の状況に左右されずに視点を明確にして臨みたいところです。
釣行データ
天気と気温
- 晴れ
- 現地最高気温17℃
タックル
- ロッド:DAIWA 清流X45 / DAIWA NEOテンカラ36
- ライン:レベルライン3.5号
- ハリス:ナイロン1.5号
- 毛ばり:#12ドライテンカラ毛ばり
釣った魚
- 虹鱒5匹(最大27cm)
- 山女魚8匹(最大18cm)
確認した野鳥
- ダイサギ
- マガモ
- トビ
- カワガラス
- キジバト
- カワラヒワ
- ムクドリ
- ヒヨドリ
- ハシボソガラス
- アオジ(鳴)
- アカゲラ
- ヤマセミ
- ミソサザイ
上の画像はミソサザイです。渓流ではおなじみの野鳥ですが、なんせ小さいし迷彩色なので見つけるのが難しく、見つけても動きがすばしっこいので撮影は非常に困難です。
ダメもとでシャッターを切ったのですが帰宅してモニターで見てみると意外に使える写りだったのでここに掲載してみました。白っぽく細い眉斑がはっきり見えています。
野鳥に関してですが秋の渡りのシーズン真っ最中ということで自宅付近でも毎日ハクチョウやマガンのV字編隊を見ることができます。部屋に居るとその声が非常に近く感じるのですが、窓から身を乗り出し見上げてみるとその隊列ははるか上空。余程大きな声で鳴き交わしながらお互いを確認しつつ旅をしているのでしょうか。
自身がそのグループのリーダー(親鳥)となり、小型飛行機に乗ってともに渡りをしたヨーロッパの鳥類学者のドキュメンタリーを見たことがありますが、鳥たちは明らかに会話をしながら長時間の飛行をしていますよね。(↓動画再発見しました。ぜひご覧ください)
The Secret Routes of Migratory birds | Documentary
さて、今シーズンの釣行は残すところ2回となりました。次回は美唄砂川方面を予定しております。できれば40upの虹鱒と対戦し勝利したいと画策しております。またお読みいただけると嬉しいです。