小泉進次郎さんが大臣となり、ネットニュースでそのお顔を拝見するたびに、進次郎構文を考えている自分がいて、ちょっとうんざりしています。
同じことを言葉を変えて繰り返すトートロジーという手法の名手として、あの厳しく凛々しいお顔立ちからそれが発せられるのだから、どこか人を笑顔にする魅力があるのでしょう。やっぱり政治家ってすごいんだなと感心します。
肝心の進次郎構文ですが、さっぱりいいものが思いつきません。やはり本家には到底及びません。
どこか義務的な釣行
マップに掲載している川の入渓地点と水の状況を確認するために、12号線を北上しいくつかの川を見て回ってきました。
最初に入った川。相変わらず水は濁り岩はヌメリ、美しい渓とは到底言えないのですが、魚影の濃さは相変わらずで主だったポイントからはニジマスの反応が確実にありました。この川にはニジマスしか棲んでいません。
さて、その川にそそぐ某支流の入り口。堰堤があり、そこに大きな魚が付いていることがしばしばあって、来るたびに様子をうかがうことにしています。もちろん音沙汰がないこともあるのですが、この日は違っていました。
もし喰ってくるなら第一投でしっかり咥えてくるはず。直下の流れは二つに分岐し、左は倒木があるのでもし喰ったら右に誘導し少し下流に流して、穏やかな背でさっとランディングするというイメージは頭にしっかりできています。
というのも過去に一度、比較的大きな魚をココでかけてそのまま左に流してしまい、倒木に巻き込まれてラインブレイクという憂き目にあったことがあるからです。
さて、ばっちりシミュレーションできたところで、気配を殺して第一投。水深は膝下くらいと浅く水は澄んでいるが、日陰になっており水中の様子はよくわかりません。流速と同じ速度でゆっくりと下流に移動していくラインが想定通りにピタッと止まります。
確信をもってロッドにテンションを与えるとわずかに重さが乗ります。その瞬間、まぁ尺前後かなと思ったのですが右に誘導し終えたところでその姿が明らかになると、予想以上にデカくてちょっと引きました。
「ラインにテンションを与えたまま」ということを意識し、浅瀬に誘導し、数回の試みののち何とかランディングに成功。インスタネットの折り畳みフレームはその重さに耐えきれずに地球に向かってこうべを垂れるのでした。
計測すると46センチ。レインボートラウト自己記録タイです。
本当は、”本流の奔流”にもまれた精悍な顔つきの筋肉質な魚との激闘を制して「釣りたい」のが記録魚なんですが、この魚はピンポイントで「獲った」という感覚に近く、正直あまり感動は有りませんでした。やはり釣りは大きさではなくそこに至るドラマが大切なんですよ。
もっと面白く記憶に残る魚は他にたくさんあります。
何はともあれ、ラインブレイクをして魚の口に毛ばりを残さずに済んでよかったです。
ほかにもう一本、有力河川の様子を見てきましたが、そちらは渇水状態で釣りになりませんでした。川のコンディションは本当に難しい、そう思い知りました。
バカの2種類

突然ですが、私の経験上、バカは大きく2種に大別されると思います。
- 頭を使わないバカ
- 頭を使ってもバカ
前者は頭をどうやって使うか知らない状態。若い人は少なからずこれに当てはまり、成長の過程のどこかで頭を使う経験をしてこの状態を脱するのが望ましいのですが、意外と多くの人が一度も頭のフルスペックを知らないままでいたりもします。
そして後者について。頭を使わないバカが頭を使うということを学んで初めて、頭を使っても自分はバカなんだという認知に至り絶望を味わうという過程をたどります。
いや、実際に頭を使うことを始めたら存外自分の頭は性能が良かった!と気が付く人もいるでしょう。おそらくそれが”地頭の良さ”と呼ばれるものなんでしょう。
さて、私は頭を使わないタイプのバカ→頭を使ってもバカという経過をたどった正真正銘の確定バカです。これは謙遜でも下卑た態度でもなく事実なので、憐れんでもらって構いません。
基本的に理性ではなく感情や体調で考えることをするので衝動が頭を支配しています。よく言われる、お前の頭は帽子をかぶるためだけのものなのか、というやつです。帽子も似合わない私にとっては救いようのない話であって、もはや笑えません。せめて帽子が似合うのなら「そうだ、帽子をかぶるためにこの頭はアル!」と胸を張って言えるのですが。
馬鹿は死ななきゃ治らない、馬鹿に付ける薬は無い、三つ子の魂百まで、それら先人の言葉が示す通り本当にバカは矯正できないものなのでしょう。それを身をもって体感している真っ最中というわけです。
でも一つだけですが私が誇れることがありまして、それは前述のバカの過程をしっかり踏むことができたこと、そして自分がバカだと自覚できているところだけは、バカ界のエースもといニュータイプなのかもしれません。
バカと似た言葉にアホもしくは阿呆がありますが、あちらはなんていうか可愛げがあり愛されるものなんです。「あいつは阿保だよな」「あいつはバカだよな」この二つの評価には大きな違いがあって前者には親しみとユーモアが内包され、後者には侮蔑と諦めが意味合いとして残ります。
バカは救いようがなく一生つきまとう深刻な症状と言えます。せめて帽子をかぶって有効活用したいものですね。あなたは帽子が似合いますか?
ルックバック:映画レビュー

それぞれの救い
対照的な性格の二人が、あるきっかけで知り合い共同で創作活動をします。
そのきっかけとは互いの才能を認め合うことでした。誰かに知られ認められること、本当に些細なことであってもそれがきっかけで才能が開花したり自分が持っている新しい側面に気が付くことができたり、果ては人生に大きな影響を与えることもあります。その事実がこれ以上ない巧みな表現で描かれています。
どこを省くのか
重要な出来事や盛り上がるパートを「早送り」して短縮して見せ、些細な日常を時間を止めて丁寧に描写しています。感動を呼ぶのは大きなイベントや達成ではなくて、普段の何気ない言葉やアクションなんですよね。
そしてそれらの連続で私たちの一生は出来上がっていて、多寡と質は関係なく、小さな事柄をつなぎ合わせできた運命で構成されていきます。主人公は10代ですが、このことは年齢関係なく当てはまることでしょう。
なぜ描くのか、という問い
描いてもなんの役にも立たないのに、なぜ描くのか。
それの答えは最後まで明言されませんでした。ふたりとも衝動に突き動かされてひたすら描きまくる青春を過ごします。そこに、生活のことや煩わしい周囲のこと、大人の都合や忖度はいっさいありません。描きたいから描く、そこに「なぜ」が侵入してきたとき、ピュアな創作は終わっていくのでしょう。
仕事になりお金になり、人間関係を考え始めたとき、創造性は失われていくのが普通。と言っても、このルックバックという作品自体がそういう大人たちの仕事の成果なので、そこの没頭、衝動から大人期への移行というニュアンスでもこの作品は何かを伝えているのでは?そう感じました。
現実と向き合う
後半、起こってしまった辛い出来事が夢であって、現実は違うと期待させますが、アナザーストーリは有りませんでした。でも作家としての彼女の名前は残っている。いつまでも藤本キョウという作家名で創作を続けていく。二人が出会わなければ生まれなかった一人の作家として。
再び「没頭」に戻っていくラストシーンはこの作品内で最も好きな場面です。どうやってストーリを終わらせるか、どんな作品でも難しいものでしょうが、この作品の終わらせ方は一人の作家が新しいスタートを切るという前を向いた瞬間で終わっており、スタッフロールが終わり暗転するまでついつい見つめてしまいました。最後の1秒まで丁寧に作られた素晴らしい作品でした。