【2025/6/14】小さな川、不法投棄

なんだか後ろ向きで不快な記事三つがそろってしまいました。生きていればこういうこともあるでしょう。

この記事を書いているとき、インドで飛行機が落ちました。そしてイスラエルがイランの核施設を攻撃しました。暗い気持ちでいると暗いニュースばかりが目につきます。かけるクラシックの今月のテーマも「憂鬱」だし、もうこの際、どっぷり浸かってやりましょう。

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いくつかの小さな川で

今シーズンはなんだか釣りに出かけるのが億劫になってしまって、衰えを感じます。精力的だったことがかつて一度もないので、年齢とともに気力体力が衰えたとも感じませんが、以前はワクワクが止まらなかった渓流釣りにそこまで期待をしなくなってきました。

疲れているのだろうか。それとも純粋に飽きてきたのだろうか。ちょっと遠征をするなり何かしらの気分転換をしたほうがいいのでしょうかね。

そんな感じでなんとなくフワッと自宅を出たので、やはり忘れ物をしてしまい、そもそも腕時計をつけていない。そして双眼鏡もカメラもカゴにはいっていない。そしてこういうときに限って気になる鳥が多く目の前を横切っていきます。

2年ぶりにヤマゲラを見たんだけど、そんな感じだから証拠がない。かろうじてスマホで撮影したけど、小さいしボケてるしで公式(?)記録にはなりません。そして、釣りの片付けをしているときにタカっぽいものを見たんだけど、それもはっきりとはわからず、ただただ後悔だけが残りました。

肝心の釣りですが、レインボートラウトが2匹、中型のヤマメが1匹という感じで悪くはありませんでしたが、不法投棄がひどくてげんなりしました。鵡川穂別方面の渓流に架かる橋から、定期的に海産物系のごみを不法投棄している不届き者がいて、カレイやそのほかの魚が大量に捨てられていて頭にきています。なんであんなことをするのだろうか。ごみの出し方を知らないのだろうか…

終日晴れたにも関わらず涼しくて風もなく、釣りには良い日にはなりましたが、キレイな川に散らばる魚の死骸と嫌な臭いで気持ちが悪くなりちょっと病みました。なおさら川から足が遠のきそうです。不快な話でごめんなさい。

ミニマルデザインがコワい

建築物のミニマル化が止まりません。北海道では新しく建つ建物のほとんどがミニマル系と言ってもいいくらいで、家々はモノトーンで凹凸がなく、高い位置にある小さな窓ガラスにはセコムのシールが貼られ、表札の無い玄関ドア前には目隠しのパーテーション、車庫は滑るように自動で開閉しこれまたミニマルな自動車が猛スピードで住宅街を駆け抜けていく。

北海道は特になんでしょうが、住宅の伝統的なデザインというものが存在しません。本州との最も大きな違いは瓦の三角屋根などのデザインの制約が無く、それだからなのか建築関係の人たちは安易にミニマルデザインを採用しがちなんだと思います。

ドイツや東欧の建築物のような手の込んだミニマルであればいいのだが、安っぽいのっぺらぼうな意味でのミニマルな建物が増えすぎて、まるで建築パースのなかを歩いているみたいな気分です。

庭いじりをする人も極端に減りました。庭は人工芝と防犯砂利のツートンカラーで、外にはものを一切置かずにこれまたミニマルデザインな物置に収納されている様子。

極端な話なんですが、昭和には広大な庭に巨大な庭石をドカンと置いて池なども作り日本庭園風な庭にする家が多く、平成になるとガーデニングブームでハーブと謎のゲート、ベンチが置かれた庭が増えました。

なんでこうも、なんでもかんでも他から持ってきた「ブーム」に左右されるんだろうか。歴史がない(厳密に言うと歴史が継承されていない)からだという答えはやや安易で、同じように村社会から急に近代化したような海外の街でもその地域のカラーというものがはっきりと出てくるものです。

やはり日本人、北海道人は際立って”のっぺらぼう”だと思います。新しいものを取り入れていじるのは得意だけど、お前は何者なのかと問われるとそこには虚空が広がるばかりで、ひたすら次のブームを待ち、今あるものを陳腐化させることしか考えていません。

これはマスコミの影響が大きいのでしょう。相も変わらずローカル放送局は常に何か新しいものを探して取り上げることに躍起になっています。それが経済を回す原動力だったんでしょうが、これからは大きく変わっていってほしいと思ってます。「経済」という概念そのものが変わらないと無理なんだろうけど。

北海道は北欧に似ているからという理由であちらの住宅をローカライズし高級住宅地として分譲しているエリアもありますが、それもなんか違います。北海道は他のどこの地域にも似ておらずとても独特で、だからこそ北海道の家というものがあってしかるべきです。

変なことを言いますが、北海道はわびしくて寂しくて貧乏が似合います。

荒野の中にぽつぽつと小屋が立っている。見た目は質素でボロいけど実は経済的にも文化的にも豊かな人たちが暮らしている。それが私が理想とする北海道のイメージなんですが向かう方向はまったく逆で、ミニマルかつラグジュアリ(笑)がもっぱらデベロッパーに好まれ採用されるスタイルで、それに群がる日本とアジアの小金持ちという構図ができあがりつつあるようです。

ビジョンがない。だから世代を超えた協働なんてものもない。景色を見ていてそれを痛感します。

そんな北海道は到底好きになれそうもありません。見た目がすべてではないと思いますが、景色は生活が作り出している以上、日々を過ごすうえで無視できない要素だと思います。

なんの制約もなくそれぞれが好きなように生きることが豊かさなんだろうか。これがひと世代前の人たちが欲していたものなのだろうか。私たちは一本のレールの上を進んでいるのだろうか。

映画苦役列車

西村賢太さんのあの小説を映画化したものです。私は原作が好きで、西村さんの作品はエッセイなども含めて多くを読んできました。その中で再三、西村さん自身がこの映画はひどい出来だおっしゃっていたので(宣伝のためのリップサービスだったかもしれませんが)見ることはなかったのですが、サブスクに含まれていたので軽い気持ちで見てみました。

確かに、あの男は北町貫多ではありませんでした。あれは別のただ気が小さく汚いだけの男でした。

俳優さんに関しては文句は一つもありません。主役の森山未來さんが本気で演じていたのはもちろん、高良健吾さん、前田敦子さんら脇役陣もいたって自然で違和感ゼロでした。

原作で描かれる北町貫多は、高尚で下衆、大胆でナイーブ、気高きクズ、孤高のヒトデナシ、そんな矛盾だらけの非常に扱いにくい面倒くさい男なのですが、この映画内の主人公はただ卑屈でキョドっているだけに映ります。本当にただそれだけで、矛盾が多く面倒な男感はありません。

ヤサグレ感を風俗通いのシーンとやたらに吸うタバコで表現したかったのでしょうが、どうしてもとってつけたように映ってしまいます。映画って難しいものなんでしょう。こうやって批判するのは簡単です。だから批判にならないように書きたいのですが、原作が好きなだけに批判めいてしまいますね。

森山未來さんはかなり体を張っているし演じることに本気だったと思うので、もっとトコトン行くところまで行ってほしかった気持ちもあります。実際に役作りのために北町貫多のような生活をしばらく続けていたようで、顔のむくみなんかは確かに北町寛太風なんですが、おそらく原作に対する解釈の違いなんでしょう。あれは別人でした。

残念だった点は他にいくつかあり、その一つが食べ方です。悠然とふてぶてしく、大食いで無頓着なんだけど変なこだわりと上品さを持つ、それが北町貫多なんですが、映画ではただただ汚くむさぼるように食べます。

そしてもう一つ、オープニングとラストはどうかとおもった。陳腐さ、滑稽さを醸しだすためなのか軽妙なBGM(線路は続くよどこまでも)を入れているのですが、北町貫多という人間は本物のクズなんだけど、同時に狂気的に真剣で繊細で神経質なので、あの表現は私にはどうしても受け入れられません。彼はあんなんでも彼なりに真剣に生きていたのです。

そんなわけで、原作がある映画作品にしばしばある話ですが、原作が好きな人にとって到底許容できる映画ではありませんでした。逆に原作を知らないであの映画を見るとどういう感想を抱くのだろうか。それが気になります。

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