結局デカルトは理性をどう解釈したんだろう?

17世紀を生きたデカルトは、多くの実験的な思索をした哲学者として知られています。

まずは一つの真理としての理性を追求し、それを手掛かりに神の存在までも定義しようと試みました。

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デカルトは学問が好きだった!?

学問

学問が好きだったけど、なんかボヤっとしていてよくわからない。そう思っていました。

神話や古典は作り話だし、ほかの科目も昔の人が勉強して発見したものだから、今実際におこっていることじゃない。そう考えると、部屋で一人勉強することなんてどれも意味なくね?と考え込むようになり、ある日旅に出ることにします。

部屋でする勉強においては、いろいろなことを試すことが可能です。数学の問題を紙のうえで解くときにはあれこれ方法を試すことができます。それにはたいして時間も労力も必要としません。

でも一歩外に出ると、一つの考えを実行するにしても、多くの時間と労力を必要とします。今日は街にでて買い物をするのか、図書館に行って読書をするのか、職場に行ってガンガン働くのか…どれか一つをすると他のことができなくなってしまいます。

それだけ実際の生活では何をするのかの選択がより大切になり、なるべく失敗しないように慎重になっていきます。ということで、彼は学問を離れ、実生活の中で学問よりも確かなものを探し始めます。

五感で感じるものは確実ではない

水に触る

錯覚、思い込みなど人間の感覚は不完全です。

見間違えたり、聞き違えたり、特に先入観を持って何かをすると簡単に五感は騙されてしまいます。目隠しをして、イチゴの香りを付けた肉を食べたら、自分が何を食べているのかさっぱりわからなくなります。

簡単に騙されてしまうのが感覚です。

そして、とても論理的な数学ですらデカルトは確かなものではないとします。これは少し説明が難しいのですが、要するに、1+1=2というものも、何か大きな力によってそのように思い込まされているだけなのかもしれない、そう思ったわけです。

一見疑いようのないものまで、徹底的に疑ってみることにしたのです。

自分の五感で感じるものまで否定すると、この世界で自分が感じてきたものはすべて確かなものではなくなります。そして、学問のなかでもとても論理的ではっきりしている数学ですら疑ったのですが、そうなると確かなものなんてどこにもないのでは?と思うでしょう。自分が感じるもの、考えること、すべて情報は不確かなものでニセモノだと。

デカルトはそこまで考えに考えて、ひとつのことに気がつきます。この「すべてを疑っていること」それは間違いのないことだと。このことは唯一確かなものなのではないか?と。

すべてを疑っている、それだけは確実

理性的とは

全てを疑っている自分は確かなものだということを発見したデカルトは、もう一つの大きなことに向き合わなくてはいけませんでした。それは神の存在です。

現代の私たちはそんなことを考えなくてもよいのですが、デカルトが生きた時代はキリスト教が学問をするうえでもとても大切な要素かつ邪魔な存在でした。

さて、デカルトは二つの反対のモノを持つことになってしまいます。

1見たり聞いたり考えたりする自分は、確かなものじゃない

2確かなものじゃないと決めている、そのことは確かだ。

二つの矛盾する存在がデカルトの中に存在しています。そして彼はこう考えました。

1は心と体に関すること

2は頭に関すること

でも頭という部位も物理的な体の一部分としてほかの部位と連動しています。頭で指令を送って私たちは手足を動かして、五感を使って外の世界を感じ取ります。

ということで、頭の中でも「理性」と呼ばれている部分だけが確かなものだと、一応結論付けたわけです。

一度話をまとめると。99.9%不確かな存在である人間に、0.1%だけ確かなものが入っている、そんなイメージです。でもその「理性」も脳という体の一器官から生じているものです。不完全な体に完全な部分がある矛盾。

これをどう説明しましょうか?

ここでやっと神が登場します。デカルトはここで神を「利用」するのです。

神を利用しつつ、神側も利用した?

くもの画像

不完全な自分という存在にちょこっとおかれた頭の一部分。その理性は神が残してくれた唯一の完全なものだったというわけです。

※これはあくまでもデカルトの考えであり、正解ではないことに注意してください。

理性は脳から生まれる。脳は体の一部。だから理性は体の一部じゃないか!

そう思うのはごく当たり前だと思います。むしろそれが正常な考え方。

でも、先ほども述べたように、デカルト的には99.9%疑わしいのが心と体なので、それは信用できないのです。

ということで、ひとまず理性は神から授かったとしましょう。この前提がないと話が先に進んでいきません。そして、このことにより、神も恩恵を受けるわけです。

それは、神自身も存在を証明されたということだから。面白いけどちょっとゾクッとする思想です。

理性は本当に神からさずかったもの!?

考える犬

現代人の我々は、おそらくこの考えに否定的だと思います。

理性は確かに存在し、物事を判断し体や心をコントロールしようとしますが、はたしてそれは有効なのか? 

言い換えれば、理性が心や体に勝ってコントロールできたことはあるだろうか?

多くの人が理性に負け、なんとなく人生を生きていきます。なので、少し乱暴なことに言及しなければいけませんが、99.9%の人が理性を持っていないのです。

ある哲学者はこんなことを言いました。人間は考える葦であると。でもあなたの周りを見てごらんなさい。考えない葦だらけです。だから、人間=理性ではない。

「理性が優勢な人間」= 理性なのです。

人間=理性という概念が最初にあると、差別的な考えに至る可能性があるので注意が必要です。理性が優勢ではない人間は人間ではないという極端な考えに行き着いてしまうかもしれません。

まとめ:理性はどこにあるのだろうか?

ということで、デカルトの考える理性と、神について考察をしてみました。覚えていてほしいことは以下の2点です。

デカルトは、唯一確かものとして、疑っている自分に注目し、その疑っている自分の一部を理性と呼び、それは神から直接授かったと結論づけた。

これを押さえておけばデカルトを語ることはできます。そしてここを出発点として、あなたなりの考察を深めてみてください。

このほかに、神は誠実なのか不誠実なのかといった論点もあるので次回はそこらへんに言及してみましょう。不誠実な神というワードは破壊力がありますね。

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