コメの値段がなかなか下がりません。このままずーっと5キロ4000円が続くのだろうか、そんなことを考えしまいます。それと同時に今までが安すぎた、とも思います。
生産に非常に手間のかかるコメ、それも農家さんの高齢化、離農など様々な問題が叫ばれて久しいですが、去年までは5キロ2000円を切る価格で買えていたのだから、それこそが奇跡に近いようなことだったのでしょう。
これからはコメに限らず食べ物も水も価格は上がり続けるでしょう。日本はまだ、スーパーに行けばご近所野菜的なものが安価で手に入りますし、世界的に見れば稀な恵まれた環境であることは間違いありません。
と言いつつ、このひと月パスタで生活してみましたが、やはりグルテンが悪さをしているのか目の周りにぶつぶつが増えてきたので、コメ食に戻します。私は日本人なんですね、やっぱり。
千歳川支流釣行


千歳の山側を流れる某川へ釣りに行ってきました。鳥見がメインだったので1時間弱、距離にすると500メートルほどの区間でしたが、アタリが5回でキャッチできたのは3匹。いずれもきれいなブラウントラウトでした。
ブラウントラウトは北海道で釣れる他の渓流魚と違っていて、流れの中のポイントには付いておらず、ほぼ止水と言っていいような淵や障害物の下に潜んでいます。いかにも欧米のゆったりしたクリーク出身ですよ~と言ったようなライフスタイルです。
その割に一度かかるとなかなか引いてくれるので(イワナ以上、ニジマス未満な引き)やはり対象魚としては魅力的ですが、外来魚なので顔を見るたびに複雑な気持ちになるのです。
この川での釣りはコツが必要なので、一度来て全く釣れずに釣れない川だと思っている人も多いはずです。対岸に当てながら毛ばりを流すくらいの気持ちで攻めてみるとよいでしょう。ルアーだとピンポイントに、着水直後に食わすようなイメージです。
近いうちに動画にしますのでよかったらご覧ください。(高評価、チャンネル登録もよろしくお願いします。という定型は言いたかないが)
この日確認した野鳥は以下になります。数回ミソサザイを目視することができ、目的は果たせました。カワセミが目の前を飛んでいき、森の中からはキビタキやキジバトのさえずりも聞こえてきました。よい季節になりましたね。
- ヒヨドリ
- ヒガラ
- シジュウカラ
- アオサギ
- マガモ
- キビタキ
- ミソサザイ
- カワセミ
- エナガ
- キジバト
差別意識というやっかいなもの

具体的に何に対して差別意識を持っているのかについて明言しませんが、私はあるカテゴリーの人たちへ差別意識を持っているということを自分で認めています。仮に私が公人でそのことをうっかり口にしようものなら、あっという間に辞任に追い込まれるような、今の常識では決して許されないやつです。
ちょっと話は変わりますが、私は過去に2度、差別というものを体感しました。
一度目は帯広に引っ越した時。当時深夜のコンビニでバイトをしていたのですが、同じシフトの地元の若者(当時は私も同年代だが)が小声でこういうことを言うんですよ。「あいつアイヌだ。マジでキモイ」と。確かに和人よりも毛深くて彫りが深い顔立ちで、一目でわかるのですが、私は特に何も感じませんでした。
そういう発言をしている彼らも特に悪気はない様子だし、普通に気のいい人たちなんですよね。いやむしろ帯広というところは人が温かい場所なんです。でもそんな彼らがとてもカジュアルに差別発言をしていることに私は衝撃を受けました。
私は札幌近郊で育ったのでそれまでアイヌの人たちを見たことが無く、当然差別意識なんてものはみじんも自分の中になかったのです。本当にこれには驚いたのを今でもハッキリと覚えています。
二つ目は、私がボランティアでアフリカ某国で暮らしていた時のことです。Chung Chong というアジア系への差別用語を数日に一度は言われました。アフリカの中では比較的発展した大都市で、裕福な人も知的な人も多い場所だったのですが、それでもそういう人たちは少なからず存在しました。
彼らに共通しているのは、そこにヘイト感情はほぼ無いということです。アジア系の人間を見たら、とりあえず近寄って Chung Chong と言う、という”習慣”が出来上がっていると言ったほうが正確かもしれません。
小さな町で生活をしていたならば、数か月もすれば町の人に顔を覚えてもらえるのでそのうちそのようなことは減っていくのでしょうが、日々知らない人とすれ違う大都会だとそれに終わりはなく、2年間継続して嫌な思いをしたものです。
知り合いの話を聞くと、石を投げられたりあからさまな差別を受けたケースもあるようです。でもそのほとんどが習慣として悪気もなく行われているというのが私の印象です。
この「習慣からくる気軽な差別」は、するほうは特に罪の意識もなく行うのですが、されたほうはじわじわとメンタルをやられます。でもこれは、それこそ教育で何とかなるものです。
差別が無いところで育つと、差別ということを知らずに育ちます。だから意図的に大人たちがそういう環境を作ればいいだけのことで、近い将来、こういうカジュアルな差別はなくなるでしょう。いや、そう願っています。
さて、ここからが本題なんですが、本当のヘイトから生じる差別に関しては、とても根深いものです。どうしてもその存在が許せない。そうなってくるととても危険です。
そこまでいってしまった場合はお互いに離れて住むのが唯一の解決策だと私は思います。ヘイトしているほうもヘイトされているほうもそれに気が付いて、適切な距離をとるしかない。いくらヘイトが悪いことだと訴えたとしても、その根本的な嫌悪感をその人から消すことは不可能でしょう。
そして、私自身も差別感情を持っているので、そういう人たちがいる場所からは距離を置いています。もちろん、その感情を表に出すこと(暴言や暴力等)はしないので、遭遇するたびにそういう感情を持っている自分の内側に気づかされ、ただただ自分が嫌になり疲れるだけなので、距離を置いているのです。
多文化、他民族共生は一見理想の世界だと思われますが、やはり似た者同士まとまって生活するのが人間という動物の本質に沿っているように感じる次第です。
というようなことを近頃、何がきっかけだったか忘れましたが思ったから書いてみました。特に深い意味はありません。
すばらしき世界

映画のレビューです。
役所広司さん主演、西川美和さん監督の映画で、元暴力団組員の主人公(三上)が堅気の世界で生きていこうと奮闘する、という内容です。
テレビ関係の仕事をフリーでしている若者(津乃田)と接点を持ち、ドキュメンタリーを撮らせる代わりに母親を探してもらう、という約束をし、しばらく行動を共にします。
その中で、三上が持っている凶暴性や直情的な性格が処々に垣間見られ、津乃田は底知れぬ恐怖を感じちょっと引いてしまうのですが、それでも更生を応援していきます。
地域の人や福祉の協力も得ていろいろ努力しますが、生きづらさが露呈するばかりで結局嫌気がさし、元の暴力団仲間のところに転がり込むのですが、そこでも暴対法の影響でヤクザとして生きていくことは難しいことを知り、最終的に介護施設で安定した仕事を手にします。
そして最終的に主人公は一人ボロアパートで亡くなります。その死因は作中では明らかにされていません。
もともと持病があったので病死かもしれないが、おそらく自殺であったろうと推測されます。その動機なんですが、その直前にある出来事があり、彼は初めて怒りを自分の中に抑え込むことに成功したのですが、そのことが関係しているでしょう。
人生の到達点は人によって違います。世界的に活躍するアスリートになる人もいれば、普通の小学生ができるようなことを一生かかって為す人もいます。この主人公はまさに後者にあたり、自殺する直前に、今までできなかった”自分の衝動を抑える”ということに成功し、彼は大きな成長をしました。それは本人も自覚していたはずです。
でもここで、大きなジレンマに直面します。自分を曲げるくらいなら死んでもいい、そう言って生きてきたのだから、自分を曲げたときに死ななければいけなくなったのです。
暴力はもちろんいけません。彼は暴力を抑える必要がありました。そしてそれに初めて成功しました。でも自分を曲げずにただ暴力を抑えるだけでよかったのです。でも実際にその方法を彼は知りませんでした。
暴力以外のほかの選択肢を多数持つことの大切さを見ていて感じました。不正義、不義理に直面した時にそれを解決するためにできること、要するに話し合いや妥協、場合によっては報告や連絡というものを家庭や社会の中で学ばすに育つと、彼のようになってしまうんだと思います。
私自身も家庭が理想的な場所ではなく、話し合いや論理的なものが存在せず、ただ感情のみが支配する場所で育ったので、大人になってから苦労しました。今も苦労していると思います。そういう人は程度の差こそあれとても多いんじゃなかろうか。
この映画が描きたかったのは、そういう部分だったのではと想像します。「元反社の社会復帰は難しい」という表面的なものがテーマではないでしょう。