【2025/4/23】札幌近郊の春の小川へ自転車釣行

メールとか買い物でヤフーを使っているので、どうしてもニュースやゴシップ記事に目がいってしまいその流れでヤフコメもだらだら読んでしまうことがあります。

ちょっと中国の人が問題を起こせば、中国人を入国禁止にスベキだ!とか、ちょっと政治家が不祥事を起こせば、即刻辞任スベキだ!とか、ちょっと事件が起きれば、死刑にスベキだ!と、まったく実現性が無いばかりか文章としての美しさもないコメントが羅列されています。

あそこに書き込んでいる人たちは実在するのだろうかと疑ってしまうほど。ああいう人たちが街を歩き、日々すれ違っていると思うと軽く恐怖を感じます。ということで今日も人がいない方向へ向かいましょう。

コンテンツ

家の近くの小川での釣り

前回のブログで、「気になる」と書いた川に早速入ってきました。

気温も程よく風も穏やかで、シーズン最初の釣行はとても気持ちの良いものになりました。詳しくは動画を見ていただきたいのですが、ヤマメやレインボートラウトがコンスタントに釣れました。もちろんヤマメはすべてリリースしております。

近い川なので自転車での釣行。まだ暑くないので平気でしたが、あとひと月もすると自転車での釣りは消耗が激しく、ひ弱な中年にとってはまさに命がけの挑戦となります。

涼しく、まだ草勢が弱いうちにまとめて近所の川を探索してみるつもりです。といっても自転車で行ける範囲にそんなに良い川はないので、ウグイがメインの釣りになるとは思いますが、また釣果があれば動画を作ってみます。

話は変わりますが、この日、新しいフックを試してみました。今まではアキスコのフック AFB 075 を5シーズンほど使い続けてきました。

このフック、とても丈夫なんですよね。北海道の野生化したレインボートラウトはものすごい力で引くので、通常のフライフックでは簡単に曲がってしまうのですが、こいつは太く頑丈で安心して使うことができます。

でもバーブレスにするために毎回返しをつぶすのも面倒なので、♯12のヘビーワイヤの代替品を探していました。そして試しに マルト g22BLBT 100本入り を購入し早速毛ばりを巻いてみました。

このフックもヘビーワイヤタイプなんですが、アキスコの同サイズよりもやや華奢なので丈夫さという面では劣るかもしれません(まだ大物をかけていないので実際はわからない)。ですが針先の鋭さはおそらくアキスコのフックよりも優秀かもしれません。抵抗なくスッと刺さる印象です。

この日の釣行でもバラシはほぼゼロで、フッキングもしやすい印象でした。しばらくはこのフックで毛ばりを巻いて使ってみようと思ってます。

自家製幸福論

幸せとは何か。これを考えたことが無い人はおそらくいないと思います。なぜなら、日々の行動の基準となるものだからです。

様々な人が定義しようと試みてきましたが、決定版となるようなものはいまだ存在していないように思われます。

幸福は人によって違うものだからだ、時代や環境によって変化するものだからだ、という意見もありますが、変わるものはそもそも定義とは言えず、各々の年齢性別環境状況に左右されない、完全なる人間としての幸福について、世界の哲学者と言われる人たちは自説を展開してきたのであります。

北海道に住んでいるしょぼくれたオッサンである私も、いっちょ前に幸福というものについてアレコレ考えています。偉人たちの視点を参考にしつつ、いくつかの側面から見ていきましょう。

不幸ではないことが幸福なのか

例えば、一人きりでの生活は一見不幸に思われます。でも必ずしもそうではない。

もともと一人で生活している人と、家族を事故で失い一人になった人。同じ「一人」でもその意味は違い、前者は不幸を感じていないかもしれませんが、後者は確実に不幸を感じているはずです。

このケースの場合、不幸を感じていない一人暮らしの人は、この1点に限れば幸福と言えるでしょう。

この説は的を得ているように感じます。主観であることから離れられませんが、それでも「〇〇だから不幸」だという安易な決めつけからは脱出することができます。

本人が不幸を感じない限り、それは幸福と呼べるのでしょうか。

心身ともに元気であること

シンプルに、心身共に健康な状態が幸福だと言った人もいます。これは幸福論の最たるもので、現代人の幸福はほぼほぼコレ無しでは語れないほどです。

そしてそれが自分の家族まで広がっていくと、ますます幸福度は高くなりますが、もっと大きな視点から考えると、いささか自己中心的な幸福論ということに帰結するでしょう。

近世までの哲学者たちは、環境問題や人口爆発のことを考慮していません。現在を生きる私たちは、自分の身体と遠い他国の人の身体をより身近に感じているはずです。

裕福な国で消費されるものを生産する工場において劣悪な環境で働く人たち。輸出農作物を生産するために農薬によって病気になる人たち。こういった間接的な搾取を無視して、自分さえ心身共に元気であれば幸福である、という時代ではなくなっているでしょう。

意識と無意識の幸福

意識することで実感できる幸福というものがあります。例えば、体のどの部分も痛くないこと、おなか一杯たべることができること、それら当たり前に思われる日常を意識するだけで、自分はなんて幸福なんだ!と気が付くことができます。

しかし一方で、無意識の状態にこそ幸福があるという説も存在します。無意識とは、わかりやすく言うと無我夢中、没頭の状態です。何か目標にむかって打ち込んでいるとき、時間を忘れてゲームや読書に熱中しているとき、そういう時こそ人間は幸福なんだ、そう唱える人たちもいます。

ここでは、幸福を今という瞬間に求めるのか否かということが主題となります。マインドフルネスや瞑想は意識をイマココに取り戻す作業なので、これは前者によって(意識することによって)幸福を得ることと同義です。

無意識状態の自分は果たして自分と言えるのか。自分でないとしたら、そこに幸福は存在しうるのだろうかという疑問も湧いてきます。

お金

お金と幸福には密接な関係がある。そのことに異論がある人はいないはずです。特にお金がインターネットとタッグを組んだ時、まさに「最強」となり一人で生きていくことができるようになりました。この二つがあれば生活に困ることはほぼなくなったのです。

しかし、金銭的に余裕がある人が精神を病むという事例を私たちはたくさん見てきました。あなたの周りにも心当たりはあるでしょうし、芸能人や著名人でもしばしばこの例は散見されます。

お金は実は最低限あればいいもので、そこまで重要なものではないと思っています。ボロくてもよいので衣食住がそろっていれば、幸福に及ぼす影響はそれほど大きくありません。

幸福が自分で決めるものである限りは(他者が決めるものではないという意味)お金がもたらすモノゴトはあくまでも”ファッション”であって、その人の幸せには直結しません。

それよりも、紛争や災害が少ないこと、政治経済が安定していることのほうが、個人が一時的に持つお金よりも幸せにつながっていそうです。そういう意味では、やはり日本に生まれた時点で幸福と言わざるを得ません。

木製テンカラアイテムの制作

昨年の春から始めたテンカラアイテムの制作と販売ですが、細々と続けています。

毛ばりケースは概ね好評をいただいており、購入してくださる方も増えてきました。リピートしてくださった方もいます。本当にありがたい話です。

まだいくつか解決したい課題はあるので、それらを確実に消化しつつより完成度の高いものを目指したいと思います。

フタを横にスライドさせるという構造上、背の高いフライはどうしてもフタに挟まったり干渉したりしてしまいます。上からパタンと閉じるような構造だと、押し込むことができるんだけど。

中のコルクを外してバラバラに毛ばりを入れるスタイルであれば、毛ばりを倒して入れられるので問題は起きません。だから販売の際には「中のコルクを外して納品することもできる」と明記しているのですが、今のところ100パーセント、中のコルクは有りでの注文です。まぁ、見た目は確実にコルクがあったほうがいいから気持ちはわかります。

だったら、箱を深くすればいいのでしょうが、あまり深くしすぎても持ちづらくなるし、そもそもどこまで深くしても干渉する毛ばりは干渉するだろうから、これも良い解決策とは言えません。

だからこうしてみました(上の画像)。コルクゾーンとぶっこみゾーンを作ってみたのです。これで使用する人がどこにどの毛ばりを収納するか決められので、いいんじゃないかと。

私は最も小さいものを、コルクを貼らずに使用しています。やっぱり片手で開閉可能なこのデザインには大きなアドバンテージがあると思っています。

Testről és lélekről 心と体と

映画のレビューです。

少し前のベルリン映画祭で金熊賞を受賞したハンガリーの映画で、あらすじを端的に言うと、同じ夢を見た男女の恋愛というありがちなものではあるのですが、そこには複数のテーマが隠されているように思いました。以下ネタバレも含むので、すでに鑑賞した方、もしくは見る予定が無い方はお読みください。

ドラマの舞台は食肉工場で、毎日牛が殺され解体されていきます。そこに代理の検査技師として働き始めた女性(マーリア)が主人公で、その相手となるのが財務部長を務める中年男性のエンドレ。彼は左手が不自由なこともあり、淡々と毎日を送っていました。

マーリアは自閉症で今も定期的にカウンセリングを受けています。空気を読んだり忖度をしたり妥協したりすることができず職場内では完全に浮いている状況。そんな中ある事件がきっかけで、二人が同じ夢を見ていることが発覚し徐々に距離を縮めていく、というのがストーリーです。

舞台が食肉工場ということもあり、生々しい表現が多く直視できない人もいるかもしれませんが、実際はこれもよりも劣悪な環境でしょう。そんな殺伐とした状況の中、印象的なのは、これから殺される牛の瞳です。その牛の瞳は何かを訴えかけているようにも見えるし、何も宿さない虚ろなものにも見えます。

その瞳が自閉症であるマーリアの瞳とリンクしているように私は感じました。他者からは感情の起伏が無く不気味に映りますが、実際は皆と同じように生きてみたいというささやかな希望を宿しています。

言葉がわからない、行動が他とは違う。たったそれだけのことで人間は簡単におのれの倫理の枠からそれらを除外するという事実に愕然としました。

物言わぬ瞳も”普通”の人たちと同じように、いやそれ以上にモノゴトを感じ生きている。それが突然の自傷行為で発覚します。血がドクドクと流れるその描写は、血が苦手な人は直視できないほど生々しいものです。でもあのシーンをあるがままに表現しない限り、メッセージは伝わらないのだろうと想像します。

人間が他の人間や動物と共生することの難しさが巧みに表現されていてちょっと気分が落ち込みますが、結果的に希望が見いだせる終わり方だったので救われました。

全体的に重く暗い雰囲気ではありますが、東欧映画ならではの映像の美しさも堪能できます。素晴らしい作品でした。

コンテンツ